潮田玲子の若い頃から現在まで!バドミントン女王のわかいい魅力に迫る

潮田玲子の若い頃から現在まで!バドミントン女王のわかいい魅力に迫る

バドミントン界に革命を起こし、一時代を築き上げた「オグシオ」

小椋久美子・潮田玲子ペアの活躍は、多くの人々の記憶に鮮明に残っています。

今回は、そんな潮田玲子選手の若い頃からのかわいい姿を通して、バドミントン選手として成長と現在に至るまでを振り返ります。

目次
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潮田玲子のプロフィール

潮田玲子(しおた れいこ)は、1983年9月30日に福岡県京都郡苅田町で生まれました。

身長166cm、右利きのバドミントンプレーヤーとして、三洋電機バドミントン部を経て日本ユニシス女子バドミントン部に所属していました。

現在は増嶋玲子(旧姓:潮田)として、元Jリーガーの増嶋竜也氏と結婚し、2児の母親として、またスポーツキャスターや公益財団法人日本バドミントン協会の普及指導開発部メンバーとしても活動しています。

その華やかな活躍の裏には、若い頃からのたゆまぬ努力と情熱がありました。

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潮田玲子の若い頃のキャリア

<Number Wedより>

潮田玲子選手の輝かしいキャリアを語る前に、「オグシオ」がバドミントン界でどのような存在だったのかを押さえておきましょう。

オグシオは単なるダブルスペアではなく、まさにバドミントン界に新風を吹き込んだコンビでした。

それまで日本のバドミントン界は、国際大会で一定の成果を挙げつつも、競技としての認知度は必ずしも高くありませんでした。

ところがオグシオの登場によって状況は一変しました。


二人の圧倒的な実力に加え、その華やかなビジュアルがマスメディアの注目を浴び、結果としてバドミントン人気を大きく押し上げることになったのです。

では、潮田選手がどのようにしてトップアスリートへの階段を駆け上がったのか、その原点に迫ります。

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潮田玲子の若い頃から現在まで!

1. バドミントンとの出会い

潮田玲子さんのバドミントン人生は、母の影響で3歳頃からラケットに触れ始めたことから始まりました。

6歳で名門・京都クラブ(みやこクラブ)に入団し、本格的な競技生活をスタートさせました。

「子供の頃から体を動かすことが好きでした。母がバドミントンをしていて、自然と私も始めるようになりました。最初は遊び感覚でしたが、すぐに夢中になりました」と潮田は当時を振り返ります。

京都クラブでは体育会ばりの厳しい練習がありましたが、その環境が若き日の潮田の基礎を築きました。

小学生時代から頭角を現した潮田は、1995年の全国小学生大会女子シングルスで全国3位に入賞。このとき準々決勝で初めて小椋久美子と対戦し、潮田が勝利しています。

これが後のオグシオ結成の遠い布石となりました。

2. 中学・高校時代の活躍

潮田は1998年、苅田町立新津中学校3年のとき、全国中学生大会女子シングルスで優勝し、初めて全国タイトルを獲得します。

その後は、スポーツ推薦で九州国際大学付属高等学校に進学しました。

高校1年生の1999年度インターハイ女子団体(学校対抗)戦では、1年生ながら優勝に貢献。

同年、アジアジュニア選手権の強化合宿で偶然小椋とダブルスを組んだことが、後のペア結成の発端となります。

高校2年の2000年には、第19回全日本ジュニアバドミントン選手権大会女子シングルス優勝。

これによりユース代表に選ばれ、オランダジュニア選手権で女子シングルス3位入賞という成績を収めました。

高校3年時には小椋と組んだ女子ダブルスで、オランダジュニアおよびドイツジュニアで準優勝。

また、アテネオリンピック特別強化指定選手にも選ばれるなど、着実にステップアップしていきました。

3. オグシオの誕生と活躍

高校卒業後の2002年、潮田は三洋電機に入社。

ここで小椋久美子さんと正式にペアを組み、「オグシオ」が誕生しました。

小椋の「オグ」と潮田の「シオ」をとって名付けられたこのコンビネーションは、日本バドミントン界に新たな歴史を刻むことになります。

2004年、全日本総合選手権で初優勝を飾り、以降2008年までの5連覇を達成。

2005年にはアジア選手権女子ダブルスで準優勝、デンマークオープンで初の大型国際大会優勝を飾りました。

2006年、東京で開催された国別対抗世界選手権のユーバー杯では、バドミントンでは異例の1万人が詰めかけ入場制限がかかるほどの人気を博しました。

同年末の第15回アジア大会では銀メダルに貢献し、女子ダブルスでは銅メダルを獲得。

そして2007年の世界選手権では、準決勝で中国ペアに惜しくも敗れたものの、銅メダルを獲得。

この結果を受けて、JOC強化指定選手としてバドミントン競技初のエリートAに指定されました。

オグシオの人気は競技の枠を超え、2007年9月には日本バドミントン協会公認の写真集「オグシオ公式写真集 ROAD TO BEIJING」が発売され話題となりました。

また、三洋電機の広告にも起用されるなど、メディアへの露出も増加していきました。

4. 北京オリンピックと苦悩

2008年1月、オグシオはJOCシンボルアスリートとなり、5月には北京オリンピック女子ダブルスへの出場権を正式に獲得。

しかし、本番では小椋の腰椎捻挫の再発もあり、ベストコンディションでの出場はかなわず、準々決勝で優勝した中国ペアに敗れ、5位入賞という結果に終わりました。

当時を振り返り、潮田玲子選手は「早く終わってほしいような、この苦しみから解放されたいという気持ちと、コンディションが上がってこなくて、『よし、行くぞ』と思うほどの覚悟が決まらないところもあって。北京を楽しむ感覚がまったくなくて、ぜんぜん楽しめなかったのが悔いとして残っています」と語っています。

また、勝てなかったショックから「競技そのものを続ける気力がないみたいな感情だった」と振り返り、大会後1カ月ほど家から出ないほどふさぎ込んでいました。

注目を浴びることの葛藤についても、「注目されて苦しい部分はありましたし、でも見かけをきっかけに私自身に興味を持ってもらって応援してもらったりバドミントンを好きになったり、子どもたちに『潮田さんみたいになりたい』と言ってもらえるのも大きな喜びとしてモチベーションになりました」と複雑な心境を明かしています。

北京オリンピック前の時期は特に孤独を感じていたと言い、

「プレッシャーや焦りをコーチに打ち明けることもなかったし、経験した人も周りにいなかった。相談できないのも苦しいところでした」

と当時の心境を説明しています。

5. オグシオ解消後と引退

2008年の北京オリンピック後、11月11日にオグシオの年内解消が正式発表されました。

ただ、解消前の全日本総合選手権では優勝有力候補だった北京オリンピック4位入賞の別ペアをストレートで破り、見事に5連覇を達成しています。

ペア解消後も、潮田はバドミントンを続ける決意をし、2009年4月には池田信太郎と混合ダブルスペア「イケシオ」を結成。

ロンドンオリンピックでのメダル獲得を目指し、三洋電機から日本ユニシスに移籍しました。

2011年には全日本総合バドミントン選手権大会の混合ダブルスで優勝。

2012年ロンドンオリンピックにも混合ダブルスで出場しましたが、一次リーグ敗退となりました。

同年9月のヨネックスオープンジャパンを最後に現役生活から引退しました。

6. 引退後の人生

2012年9月30日、29歳の誕生日に元サッカー選手の増嶋竜也氏と結婚したことを発表。

2014年より公益財団法人日本バドミントン協会の普及指導開発部のメンバーにも選ばれました。

2015年9月に第1子長男、2017年8月に第2子長女を出産。

現在は二児の母として育児に奮闘しながら、スポーツキャスターとしても活躍しています。

また、「Woman’s ways」という団体を立ち上げ、女性アスリートの健康や生理について考える活動も積極的に行っています。

「選手時代は生理の悩みも『我慢1択』でした。今の若い世代にはもっと環境が整ってほしい」と、自身の経験を活かした活動を展開しています。

バドミントン女王のわかいい魅力

6歳でラケットを握り始めた少女が、バドミントン界のスーパースターへと成長していく道のりには、数え切れない努力と挑戦がありました。

潮田玲子さんは若い頃から卓越した才能を示しながらも、常に向上心を持ち続け、困難を乗り越えてきました。

オグシオとしての活躍は、バドミントン競技の人気向上に大きく貢献し、多くの若い選手たちに夢と希望を与えました。

若い頃に培った精神力と技術、そして美貌と知性を兼ね備えた潮田玲子の魅力は、今もなお多くの人々を惹きつけ続けています。

彼女の物語は、夢に向かって挑戦し続けることの大切さを教えてくれます。

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